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大和市の神社
諏訪神社

在処: 大和市下鶴間2540
祭神: 健御名方神(たけみなかたのかみ)
祭礼: 歳旦祭(さいたんさい)1月1日
節分祭(せつぶんさい)2月3日
例大祭(れいたいさい)9月6日
交通: 小田急線・鶴間駅下車(約25分) 
由緒:  諏訪神社は、現在境川を見下ろす台地にありますが、現在地の東350mのところにあったと伝えられ、
その跡地には宮田塚と呼ばれる塚があったと云われています。
諏訪神社は、創立年代は不詳ですが、「風土記稿」には「延宝年(1680)の棟札あり」とあったことから、
この時期以前にあったと考えられます。
諏訪神社にある神楽殿は、明治初年に村内の鶴林寺に建てられた歌舞伎の芝居小屋で、廻り舞台になっており、
一時鶴間学校として使われたあと諏訪神社に移築されたものです。
神社には、市指定重要文化財に指定されている、太刀を腰にさし右手に扇状のものを持った木像神立像があります。
深見神社

在処: 大和市深見3367
祭神・ 武甕槌神(たけみかづちのかみ)
健御名方神(たけみなかたのかみ)
祭礼: 歳旦祭(さいたんさい)1月1日
節分祭(せつぶんさい)2月3日
例大祭(れいたいさい)9月15日
交通: 小田急線・相鉄線・大和駅下車(約15分)
由緒:  この深見神社は、市内唯一の延喜式内社です。神社の創立年代は、「総国風土記」に掲載されている
ことから、由緒ある古社であることがわかります。縁記には「武甕槌神東国鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師
を率いてここに進軍され、伊弉諾神(いざなぎのかみ)の御子倉稲魂神(うかのみかたのかみ)・暗吉神(くらおかみ)
の二神をして深海を治めさせられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた」とあります。
この暗吉神は倉稲魂神と
共に、境内の御子倉稲神社に祀られています。
神社の祭神の武甕槌神は、深見領主の坂本家が常陸国鹿嶋神宮を崇拝したことから、鹿嶋神宮の分霊を祀ったものと云われています。この坂本家は、常陸介小瀬三郎義春の後裔で、常陸国とは関係が深く、鹿嶋神宮への崇敬が深かったようです。このような事から、氏子も深見神社のことを鹿嶋社として崇敬するようになったようです。
明治42年には諏訪社を合祀し、村社として氏子の北の諏訪山にあった祭神健御名方神の社で、やはり坂本家の崇敬が厚かったものです。
神社には、市の指定重要文化財の社号標があります。この石碑の社号標には、「相模国十三座之内深見神社」と」刻まれていて、五代坂本重治が建立したようです。
熊野神社

在処: 大和市上草柳905
祭神: 須佐之男命(すさのおのみこと)
速玉之男命(はやたまのおのみこと)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
事解男命(ことさかのおのみこと)
祭礼: 元旦祭(がんたんさい)1月1日
祈年祭(きねんさい)2月17日 [ 春祭 (はるまつり) ]
例大祭(れいたいさい)9月23日
新嘗祭(にいなめさい)11月23日
交通: 小田急線・相鉄線・大和駅下車(約15分)
由緒:  熊野神社は、上草柳村が深見村から分村し元和2年(1616)頃に鎮守になったと考えられます。「風土記稿」には「上・下二村の鎮守」とあり、この草柳村の分村が寛永2年〜正保元年(1625〜1644)と推定され、熊野神社は上・下草柳村の分村の後も鎮守として祀られていたことがわかります。
その後、明治期に下草柳部落に山神社が祀られ、上・下草柳それぞれ別の神社を祀るようになりました。
熊野神社の末社には、桜森稲荷社があります。

座間市の神社
鈴鹿明神社

在処: 神奈川県座間市入谷1-3500
祭神:伊邪那岐命(いざなぎのみこと)/素戔鳴尊(すさのをのみこと))
祭礼: 元旦祭(がんたんさい)1月1日/節分祭(せつぶんさい)2月3日
祈年祭(きねんさい)2月17日 [ 春祭 (はるまつり) ]/夏越大祓祭6月30日
宵宮祭7月31日/例大祭(れいたいさい)8月1日/風神祭8月28日/七五三詣11月15日
秋祭()11月23日[新嘗祭(にいなめさい)]/年越大祓祭12月27日
交通: 小田急線・座間駅下車徒歩(約8分)

由緒: 鈴鹿明神社は、遠く第二十九代欽明天皇の御代に創祀せられたという。伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。また天平年間にこの地は鈴鹿王の所領で土甘(とき)郷と言った(正倉院文書)ところから、時人が王の御名を冠して鈴鹿の字名が発祥したとも推察される。

鈴鹿明神社は、往古、東南西方平坦な水田で、その中央一丈余りの高所に、はるばる大洋を望むかの如く鎮座していた。境内は船の形をし、数十の樫の古木が繁茂し、参道中央に銀杏の大木があって、さながら船の帆の様であった。その遠景を人は「舟形の森」「樫の森」と呼んで親しんだが、今はその銀杏もなく、地形も変動して面影はない。しかし神社の地形が前方後円墳にも似るところから、昭和三十九年に社殿の東側草地を発掘したところ、千五百年以前の地下式住居跡(約七坪)が発見され、また境内の樫の古木は最大のもので樹齢九百年といわれ、座間市原始林の一部であるところから、古代の祭祀遺跡埋蔵されている事も想起され、かすかに昔日をしのばせる。

明治二年十二月、神奈川県下二十大区、二十七ヶ村(座間市入谷村、座間宿村、新田宿村、四ッ谷村、新戸村、磯部村、下溝村、上溝村、当麻村、田名村、大島村、下九沢村、上九沢村、相原村、橋本村、小山村、清兵衛新田、矢部村、同新田村、渕ノ辺村、鵜ノ森村、上鶴間村、下鶴間村、柏ヶ谷村、栗原村、上今泉村、下泉村)の郷社に列せられた。これは現在の座間市、相模原市の全域と大和市と海老名市の一部を占める広域なものであった。さらに昭和四十三年一月、神奈川県神社庁献幣使参向神社となり、現在に至っている。

座間神社

在処: 神奈川県座間市座間1-3437
祭神:
祭礼:
交通:
小田急線 相武台前から神奈中バス、座間下車徒歩2分
由緒: 「相模の飯綱さま」と親しまれている当神社の創祀は神代と云われていますが、一つは欽明天皇の御代(五三九~五七一)に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した折に飯綱権現の化身である白衣の老人が現われ、崖下の森の中に湧く清水を使うようにすすめたので、村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。そこで飯綱権現を祀ったというのです。
別の説(明治十二年編成皇国地誌)では、約八百年前の源頼朝が鎌倉へ幕府を開いたころ、悪疫が流行したした時に白衣の老人が来て、日本武尊を祀れば悪疫が治まると教えたので、日本武尊を祀ったといいますが、その時代は正和二年(一三一三)で、祭神は飯綱権現だという説もあります。
飯綱権現は、江戸時代には防火の神として信仰されていて(本来は伊勢の豊受大神と同じ食物の神様)、長野県の飯綱権現社が本社でした。座間神社と改めましたのは、明治九年で日本武尊が野火で攻撃された時、剱で草を刈って防いで勝ったという神話にもとづき、後世防火の神様ともされていましたので、明治時代になって村社とされるとき、同じくご利益のある日本武尊に祭神が改められました。正和二年、社殿を再建します。
 栗原神社

在処: 神奈川県座間市栗原中央4-4-4
祭神: 豊受大神   ( とようけのおおかみ )/天御柱命   ( あめのみはしらのみこと )/稚日留女命   ( わかひるめのみこと )
道反大神   ( ちがへしのおおかみ )/国御柱命   ( くにのみはしらのみこと )
祭礼:歳旦祭(さいたんさい)1月1日/祈年祭(きねんさい)4月29日/例祭(れいさい)9月上旬土曜日
新嘗祭(にいなめさい)11月28日
交通: 相鉄線・さがみ野駅から徒歩約20分
由緒:  当社に伝わる「栗原寺社村鏡」の写しによると、「相模の弥市」といわれた中栗原の豪農大矢家の先祖が天正元年(一五七三)に王子大権現を勧請して祀ったのが起りと伝えています。宝永三年(一七〇六)再建の記録があることや、昭和四十二年に伐採された杉の御神木が樹齢七百数十年といわれていることを考え合わせると、当社は大変古い年代に建立されたことがうかがわれます。永い歳月王子権現社は中栗原の守り神として、人々の心の支えとなり崇められてきました。
 明治時代になり、時の政府が各小字にあるお宮を合祀するように勧めたので、明治六年(一八七三)、栗原地域内に祀られていた絹張社(小池)・握財社(上栗原)・山王社(芹沢)・若宮社・龍蔵社(下栗原)はこの王子権現社に合祀され当時の栗原の総鎮守となり社名も栗原神社となりました。         
 例祭には栗原地区内五十七の地域から祭り衣装を身に付けた囃子連が威勢よく祭り太鼓を奉納競演する様は壮観です。
 社殿の左奥にそびえ立つシラカシの木は目通り周囲が三.六メートル、樹高二十メートルの大木で樹齢五百年前後といわれ昭和五十三年市の天然記念物に指定されています。
 祭神 豊受大神・天御柱命・国御柱命・道反大神・稚日留女命